「見番通り」よろしくお見知りおき願います
銀座ピアースビル1階 信濃屋さんの前の通りは、今まで特別な名前はなく、一般的に西五番街、または並木通りと金春通りの間、などと呼ばれていました。
この度、めでたく「見番(けんばん)通り」と命名され、10月30日、新橋会館ビルにてお披露目の会が華やかに開催されました。
式典には、中央区副区長、築地警察署長、全銀座会代表幹事も列席され、新橋芸者さんによる「東をどり」も披露されました。
今回は、「見番通り」の名前の由来と新橋芸者さんについて、お披露目会で老舗料亭「金田中」のご主人からお聞きした話をもとに調べてみた「歴史」をご紹介します。
「見番」とは辞書によると
『その土地の料理屋・芸者屋・待合の業者が集まってつくる三業組合の事務所の俗称。
また、近世、遊里で、芸者を登録させ、客席に出る芸者の取り次ぎや玉代の計算などの事務を扱った所』 とあります。
乱暴に言ってしまえば、芸者さんが所属するプロダクションでしょうか。
そこで「新橋芸者」の起源ですが、
江戸時代、能役者である今春太夫の屋敷が山王町(現・銀座8丁目)にあり、その「今春屋敷」に住んでいた多くの下働きの女性達が、長唄や小唄、舞などの芸に秀で、人をもてなす才もあったため、大名屋敷に呼ばれるようになった事が始まり、とされています。
【注:当時の「新橋」は、現在のJR新橋駅周辺(港区新橋)ではなく、
東銀座から銀座8丁目付近の事を言います】
その後、幕末の頃には、「新橋」は江戸で有数の花街になっていました。
当時は「柳橋」が最も有名でしたが、勤王の志士たちには敷居が高かったのか、彼らが好んだのが「新橋」で、その後、明治政府で要人となった彼らのご贔屓の「新橋」は、明治から大正にかけて大いに発展したとの事です。
大正14年には、新橋芸者の技芸向上のお披露目のため、新橋演舞場が建てられました。(だから新橋駅から離れているのですね!)
当時の銀座8丁目界隈には、たくさんの見番があり、芸者さんを乗せた人力車で埋め尽くされ、新橋花柳界の中心地だったそうです。
新橋見番は、お披露目会を行った新橋会館ビルに、その名残を見る事ができます。
「見番通り」とは、伝統を今に伝えるべく、この地区にかつてたくさんの「見番」があった歴史を知ってもらいたい、と命名されたとの事です。
今ではクローズドな新橋花柳界。 一流料亭でなくては出会えない芸者さんですが…
昔から「芸の新橋」と呼ばれていたように、実に150年の歴史がある「東をどり」が毎年5月に新橋演舞場にて開催され、卓越した芸が一般に披露されます。
今回の命名お披露目会で拝見できた事は、とても感慨深いものがありました。
新しい「通り名」の誕生に廻り会えるなど、滅多にある事ではなく、また式典に参加させて頂いた事を光栄に思います。 通り名の命名は簡単には行えないそうで、銀座8丁目町会・銀座西8町会の長い間の悲願であった事でしょう。
華やかな時代を偲び… 今後も絶える事なく発展していこうという願いが込められているように思います。
「見番通り」の認知が高まり、銀座を訪れる人々に定着する事を願ってやみません。
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